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忍野村は山梨県の東南部の富士山の麓にあります。忍野村は北東に都留市、北西に富士吉田市、南に山中湖村があり、富士河口湖町、西桂町、鳴沢村、山中湖村、道志村とともに南都留郡に含まれています。
南に富士山(標高3,776メートル)、東に石割山(標高1,413メートル)といった山々に囲まれた標高936メートルの所にあり、桂川や新名庄川の2つの川が東西に流れています。
忍野村は東西がおよそ8キロメートル、南北がおよそ4キロメートルほどで、総面積は25.05平方キロメートルの広さがあります。村内は内野地区と忍草地区に分かれており、3,392世帯、約9,232人(平成27年4月1日現在)が住んでいます。
富士山の麓にある忍野村は標高936メートル高原の村であるため、米づくりのほかに、高原にあった作物(高原野菜)が作られ、各地に送られています。また、忍野八海や、ハリモミ純林に代表される美しい自然に囲まれており、観光地としても有名です。夏になると多くの観光客が訪れます。さらに、忍野村の豊かな自然や交通の便を活かして、プラスチックやロボットの工場が増えています。
村内には山中湖から流れ出る桂川と、その支流に新名庄川があり、忍野八海にみられるように湧水が豊富で水質がよく、水量・水温ともに安定しています。
さらに、富士山を配した美しい景色、大陸性のさわやかな気候、動植物の豊かな生態など、富士山と密接な関係にある忍野村には自然の魅力がいっぱいです。
忍野村のシンボルマークである村章は、昭和45年12月17日に制定されました。制定にあたっては、村民や、村外の人を対象に広く図案を一般に公募しました。
剣ヶ峰が右頂上にそびえる美しく雄大な富士山の眺めは、「忍野富士」として広く全国に知られています。このすぐれた景観と、村の将来の力強い発展を、カタカナの「オ」で図案化し、また「シ(し)」と「ノ」で円を構成して村民の和(輪)を表現しています。
四季の杜・おしの公園付近から縄文時代早期の土器が見つかったことや小臼・大臼をはじめ36か所の遺跡が村内にあることから、村はすでに縄文時代から人が住んでいたと考えられています。また、村の大部分は大きな湖であったともいわれています。
延暦19年(西暦800年)の富士山の大噴火により、多くの集落も溶岩に飲み込まれたといわれています。その後、富士山の噴火を鎮めるため、大同2年(西暦807年)に浅間神社(忍草浅間神社)が創建されました。
富士の火山活動は西暦900年後半から1000年半ばまで続いたといわれ、その後、湖底だった忍野盆地に集落が形成されていきました。
湖の水は長い年月をかけて枯れていきましたが、富士山の伏流水を水源とする湧水池がいくつか残りました。その代表的なものが、忍野八海です。江戸期代、古跡霊場として富士道者はこの池で水垢離(水行:神仏に祈願する前に、水を浴びて身を清め,心身を清浄にすること)をしてから富士山に登りました。
また、宝永元年(1704年)、忍野村一帯は幕府直轄領となりました。人々は干上がった場所を畑にし、度重なる災害や村の人口が増えるたびに、次々と低い土地へ移動して住むようになりました。今から50年程前まで、周囲の山の中腹までを畑として利用していました。
明治8年(西暦1875年)、旧内野村と旧忍草村が合併し、忍野村となりました。元々湖の底だった忍草地区は米づくりに不適な場所でした。開墾事業を進め、村内に用水路が整備されるなど、徐々に村は豊かになっていきました。
第二次大戦後、忍野八海に代表される自然資源を活用した観光業が盛んになりました。昭和59年(1984年)にファナック株式会社が移転し、村の人口が増加。現在に至ります。