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村の歴史

ページID:0001668 印刷ページ表示 更新日:2023年11月27日更新

縄文時代(約6000年前)

夕暮時の村全景

四季の杜・おしの公園付近から縄文時代早期の土器が見つかったことや小臼・大臼をはじめ36カ所の遺跡が村内にあることから、村はすでに縄文時代ころから人が住んでいたらしいと考えられています。また、村の大部分は大きな湖になったともいわれています。

古代(1500年前)~中世(400年前)

忍草浅間神社

延暦19年(西暦800年)の富士山の大噴火により、多くの集落も溶岩により飲み込まれたといわれてます。その後、富士山の噴火を鎮めるため、大同2年(西暦807年)に浅間神社(忍野浅間神社)が創建されました。富士の火山活動は西暦900年後半から1000年半ばまで続いたといわれ、その後、湖底だった忍野盆地に集落が形成されていきました。

近世(400年前)~近代(明治時代)

底抜池

湖の水は長い年月をかけて枯れていきましたが、富士山の伏流水を水源とする湧水池がいくつか残りました。その代表的なものが、忍野八海です。江戸期代、古跡霊場として富士道者はこの池で水垢離(水行。神仏に祈願する前に、水を浴びて身を清め、心身を清浄にすること)をしてから富士山に登りました。
また、宝永元年(1704年)、忍野村一帯は幕府直轄領となりました。人々は干上がった場所を畑にし、度重なる災害や村の人口が増えるたびに、次々と低い土地へ移動して住むようになりました。今から50年程前まで、周囲の山の中腹までを畑として利用していました。

近代~現代

内野用水

明治8年(西暦1875年)、旧内野村と旧忍草村が合併し、忍野村となりました。元々湖の底だった忍草地区は米づくりに不適な場所でした。開墾事業を進め、村内に用水路が整備されるなど、徐々に村は豊かになっていきました。第二次大戦後、忍野八海に代表される自然資源を活用した観光業が盛んになりました。昭和59年(1984年)にファナック株式会社が移転し、村の人口が増加。現在に至ります。